なんでもない会話の中で、わたしはつまづいてしまう。
当たり前のように異性愛を前提として話が進むとき、男性ホモソーシャルどっぷりな表現に触れたとき、単一民族的な発想で排他的な言葉が出てくるとき。それらを目の前にしたとき、大体は咄嗟に反応できずに、あとからその場で何も言えなかった自分を責めるのだ。
知っている。そういう言葉、かつては自分だってたくさん口にしていたんだ。
男の人って鈍感だよね、不器用だよね、筆不精だよね、服に興味ないよね。男の子なのに料理とかするんだね、マメなんだね。男の子がリードしなきゃ、誘わなきゃ、告白しなきゃ。女の人は気が利くから、マルチタスクだから、勘が鋭いから、嘘がうまいから。女の子だけど機械詳しいから、力持ちだから。女の子は誘われたいから、駆け引きしなきゃ、好きは相手に言わせたい — 。
男性のホモソーシャル視点で世界をジャッジする価値観を、「男はそんなふうに言っちゃってさ」なんて馬鹿にしつつも、他方で、「男ってそういうもんだから女が受け止めてあげるしかないよね」と物分かりの良い女であろうとすることで、あいつは女だけどわかっているなんて言われちゃって、それで良い気になっちゃって。
男と女の二元論でものを語るのは無理がある。心の性と体の性が一致するとは限らない。心が性別を持つとも言い切れないし、恋愛対象は異性のみとは限らないし、そもそも恋愛感情を持たない人もいるし、恋愛感情があっても体の接触を望まない人を表す言葉もある。
体と心の性別が一致していて、異性に恋愛感情を持つというマジョリティ。マジョリティは特権階級であることに対して、あまりに無自覚になってしまう。マジョリティに属していれば、それだけで、何もしなくたってまず下駄を履いている状態にある。その安全領域は、そうでない人の「当たり前であるはずの権利」を踏みにじった上に成り立っているのだ。
同じことを言うにしても、マジョリティは力が強いだけあってひとりひとりが声を張らずとも容易に届く。でもマイノリティは叫ばなければ、そもそも声を聞いてすらもらえない。
たとえば「彼氏がほしい」という台詞、女の子が言うのと、身体的には男に見える人が言うのとでは、まず口に出すことの重みが違う。でも、本来はどちらも同じ軽さで言えるべきではないのか。
そもそも、そんな文脈で恋愛を語らなくたって良かったのに、どうして何でもかんでも、恋愛論に結びつけられてしまうんだろうと思う場面も多い。気が利いたことを言ったつもりで、ほら恋愛だってそうでしょ、と続けられたときにはげんなりする。それを指摘すれば、「自分が恋愛にコンプレックスがあるんじゃないの」と口を封じられるのが大概であるが、わたしは言いたい、どんなことも恋愛に結びつけて考える人のほうが、よほど恋愛コンプレックスを背負っている。
正直こういった話をするのに、筆者の性的指向なんぞ言及する必要性すらないと思っているが、まだ、フェミニズムやセクシャル・マイノリティの話は当事者だけのものだと思われて、ジェンダー論を語ればわたしの性的指向を尋ねられることもある。違うんだ、当事者は害を被る側であって、問題であるのは害を加える側なのだ。力が強いもの、マジョリティの意識を変えない限り、世界は動かない。だからわたしは、マジョリティのひとり、つまりその特権に無自覚であったことへの贖罪も込めて、これを書いている。