「強さ」を解体する — 実力で戦える世界とは

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Mimosa and a violin

3月8日は国際女性デーです。1908年ごろからニューヨークを皮切りに世界各地で女性の参政権や賃金の是正を求めたデモが観測されるようになりますが、特に第一次大戦前夜の1913年、平和を求める運動をするためにロシアで初めてこの記念日が祝われた日付がユリウス暦の2月23日で、この日付をグレゴリオ暦に変換したところ3月8日でした。以後欧米各国も3月8日に合わせた結果、より多くの人が同日に連帯できるようになりました。

*参照 : https://www.internationalwomensday.com/About

その4年後の1917年に、ロシアの女性たちは「パンと平和 “bread and peace”」を求めて大規模なストライキを起こします。これは一次大戦で無くなった200万人のロシア兵に想いを寄せたもので、王の退位と女性参政権が認められるその日までストライキを継続。男性たちも巻き込んで、

これが二月革命のきっかけとなり、ロマノフ王朝を倒しました。

わたしがロシアのこのあたりの歴史に関心を寄せざる得ないのは、15歳の頃に読んだ『オルフェウスの窓(池田理代子・著)』という漫画ゆえです。高校受験を終えてから進学までのあいだ、つまりちょうど2月3月のころに夢中で読みました。母の愛読書でもあったので実家には古い単行本が揃っていましたが、その冬のクリスマスに新たに愛蔵版を買ってくれたのです。

この漫画に夢中になったのは、まずお話の始まりが音楽学校を舞台にしているので、音楽高校への進学を控えたわたしが親近感を抱いたことにあるでしょう。主人公ユリウスは突如、ドイツ・レーゲンスブルクにある男子のために音楽学校のピアノ科に編入するのですが、なぜかと言えば父アーレンスマイヤが急に亡くなったため、後妻である母親にレーゲンスブルクまで連れてこられたから。アーレンスマイヤは正妻とすでに死別していて、かつ子供は女の子がふたり。ユリウスの母は自分の子供をひとりで育てながら、その子を男の子として育てれば、いつかアーレンスマイヤの遺産相続ができると考え、虎視眈々と時を待っていたので — ユリウスは女の子なのに。

その出自からそもそもハッピーエンドの予感はないのですが、序盤は音楽学校での青春群像劇で、若い音楽家の華やかな描写に魅せられます。とりわけ、ヴァイオリンの首席クラウスは目を惹きます。少しおっかない先輩で、寄宿舎の中では多少ワルもしているようですが、そのカリスマ性ゆえ学校内では人気者です。ユリウスは友情を超えてクラウスに惹かれゆく自分に気付きますが、アーレンスマイヤの家を継がなければいけないので、自分の人生を自分で選択することは端から諦めていました。

しかしいつも目に諦観の色を浮かべた彼女が、自分に運命を託してきた母を失って、初めて自分の意思で選択したのが、地位も身分も捨てて、身寄りのないままクラウスを追ってロシアへと渡る決心でした。ヴァイオリン弾きのクラウスは世を忍ぶ仮の姿で、彼の本当の名前はアレクセイ、ロシアの若い活動家だったのです。そこから舞台はロシア革命のど真ん中に移ります。

かなり壮大な物語なのですが、池田理代子といえば『ベルサイユのばら』でフランス革命をあれだけ美しく描き上げた人でありますから、15歳のわたしが夢中になるのに時間はかかりませんでした。そして、90年代の日本に生まれたわたしが、正義のためにはあんなに音楽の才能がある人でも楽器を捨てることがあると知ったのはこのときでした。文字通りクラウスは楽器を捨てるのです。スパイから逃れるために、名器ストラディヴァリウスを汽車に残して、窓から鉄橋の下へ飛び降りるシーンがあります。

クラウスのみならず、ユリウスもピアノからやや遠ざかりますが、そんなユリウスが相続のためにジェンダーを偽っていたことの重さを、そのときわたしは理解しきれていなかったかもしれません。中学生当時のわたしは、「女だから」といって行動を制限したことがほとんどなかったからです。もちろん、スカートを履けだ、おしとやかにしろだ、なんだかんだ、そこまで育つ過程で性規範やジェンダーロールの押し付けは社会から十分に浴びていたけれども、わたしは学級委員長という特権的な立場にあったことも作用して、「女であること」を理由に発言を抑えたことはなかったからです。自分が経験していないことだから、そうした抑制は「ない」とすら思っていたかもしれません。自分が強くあれば、それはなくせるのだとも思っていました。

「いいや、世界には圧倒的な力の差があるのだ」と悟ったのは、高校生になったときでしょう。東京の学校に進学するために、初めて乗った通勤時間帯の新幹線。車両に足を踏み入れたとき、客室を閉める「おじさん」の割合の高さに、わたしは絶句したのです。新幹線の特急券の価格の都合で、若い人が少ないのは想定内ながら、女性すらこんなにいないものなのか、と驚きました。それと同時に、これから毎日この列車に乗るのだから、ここに適応して生きていかなければ、とそのアンバランスを引き受けるところまでが第一印象でした。

思えば「男性優位社会」を肌で実感し、かつ迎合してしまったのはこのときだったと言えます。制服姿の女子生徒というだけで視線を感じることは少なくなく、それは珍しい存在であったからというのも多分に手伝いましたが、座席争奪戦の中で首尾よく空席を確保すれば、あとから来た人にひと睨みされるのは序の口、喰らった舌打ちは数知れず。3列並びのシートで、先に窓際に座っているわたしへの配慮なしに、あとから通路側に座った人が真ん中の空席を占領することも日常茶飯事でし — 逆の立場で同じことをすれば大体睨まれるのですが。

だってわたしは網棚からヴァイオリンケースを下ろすだけで、ギロリと睨まれなければいけなかったんですから! 降車駅が近づいて、通路側の人の前を通りたくて声をかけるのも、初めのうちは怖くて勇気のいることでした。わたしに対して、見下した目を向けてあからさまに嫌な顔をする人は本当に多かったのです。でもスーツ姿の成人男性とこちらとでは明らかにパワーバランスが悪いので、積極的応戦はせず、視線も舌打ちも気づかないふりをして流すのがせいぜい。ときどき、前の席の人がリクライニングを倒す前に一声かけてくれることがあって、いや声をかけなくてもゆっくり少しだけ倒す人というだけで、「すごく良い人」に見えました。

進学した学校は男女比が1:3で女子のほうに傾いていたので、ここでも「女だから」発言を控える必要に迫られることはありませんでしたが、子供の頃から蓄積させたミソジニーをより育ててしまった時間でもありました。何かはっきりとそれを象徴する出来事があったわけではないので言葉にするのはとても難しいのですが、音楽科であったためにクラスメイトは同時にライバルでもあって、ひとつに、自分の学年のヴァイオリン奏者が女の子ばかりだった中で、自分はどうしたらヴァイオリニストとして個性を際立たせられるかと考えたときに、「男性的な要素」を多く持つことでそれは叶うのではないかと思っていたこと、ふたつに、どことなく潜在的に「男性奏者を正解」としてしまう文化のあるクラシック音楽界の中で育ってきた人たちが集まって、その考えがより固められていった可能性があること、この2点がわたしのミソジニーが深まった理由であると考察します。

男性奏者を正解とする発想は、具体的に言えば「強さ」が価値になる世界のことです。たとえば、先生が生徒にこんな言葉を投げかけたとしましょう。「その音はそんなんじゃ足りないよ、自分がもっと大男になったつもりで弾いてみて!」。これは世界のどこでも、音楽学校の廊下を1往復もすれば5回くらい聞ける言葉だと思います。こう言われると、受け取った側はまるで「自分の体では足りない」と宣告されている気分になるのです。この種の言葉を浴び続けると小さな「コンプレックス」が積み重ねられていって、次第に自ずから「自分はパワーが足りないから、大きい男の人みたいな強い腕がうらやましいなあ」と口にするようになります。結果「大柄な男性の体格で奏でる音楽こそが正解である」という認識が生まれるわけです。

わたしが高校時代・大学時代を過ごした2010年代は、どこの音楽学校でも、同じような思想を持っていた人が多く集まっていたと思います。訂正しましょう、2010年以前も、ずっとそうでした。つまり、そうでない時なんて、未だかつてありません。強さに価値を置く考え方、すなわち「男性優位社会」は、長い間人類を支配してきました。強いことに価値があるため、強さを誇示するために、戦争も行われます。

わたしが学ぶフェミニズムというのは、こうした強さを解体することを目的としています。たとえばわたしが「若い女」だからと舐められて悔しい思いをしたとして、それで「自分がもし『強い』人だったらこんな目に遭わないんだ、社会的経済的に強者になってやろう」と思ったら、それは自分が悔しい思いをした「弱者の不都合」の再生産に加担するだけです―-次は加害側として。ですから、この悪循環を断ち切るには、そもそもの評価軸である「強さ」の解体が必要になります。

振り返れば、強さにどれだけ支配され、悩まされてきたでしょうか。大きな音を出せる人は一目置かれ、楽器を選ぶときには力強い音が出るものが吉とされました。わたしは体が大きめだったばっかりに、体格のわりに音が貧相だと言われたことも多々ありますし、それが呪縛となってわたしを追い詰めました。女々しいと言われないように、舐められないように、男っぽく弾こうとすれば音が硬いと言われて、それを解消しようとすると「女々しくなってしまうのでは」というジレンマを抱えました。

このヴァイオリン演奏における男性性信仰にがんじがらめになったわたしが、そこから解放されたのはイギリスに留学してからのことです。音楽も違ったけれど、効いたのは音楽だけではありません。日常でも「女であること」でかぶっていた不都合に出会うことが格段に減って、東京の街で舌打ちを喰らっていたことなんて忘れるくらいです。日本社会で気付かぬうちにかぶせられていた性規範の網から放たれて、身も心もほぐれた結果が、ヴァイオリン演奏に良い影響を及ぼすのに時間はかかりませんでした。この経験から、自分をトラウマから解放して、より快適に演奏できるようにすること、後世の人に同じ思いをさせたくないこと、この2点がわたしを「音楽家のフェミニズム研究」の道へと突き動かします。

ひとつわたしが「ヴァイオリン奏者の男性性信仰 “faith in masculinity”」に違和感を覚える理由に、楽器すなわち music INSTRUMENT を扱っている点です。Instrument とは計器だったり楽器だったり、「道具」を意味する言葉です。道具というのは、誰が使っても一定以上の能力を発揮させてくれるものではないでしょうか。誰が定規を使っても同じ結果が得られるからこそ、定規を使う意味があるのです。であるにも関わらず、こと楽器になると、使い手の性別や体格が問われるのは、一体どうしたことでしょうか。もちろん楽器は定規とは違って個性がありますから、定規と全く同じように語ることはできません。ただ、楽器は人間の体だけではできないことを実現させてくれるツールであって、だとするならば、体格を選ばずに使えるものであるはずです。

*筆者注:これが声楽家へのバイアスを助長する言葉になってほしくない。声楽家は「喉」を楽器と捉えていて、それは「体格」とは別のものであることを付け足しておく(体格は必ずしも声種を決める条件ではない)。

自分にかぶせられているバイアスに気づくのは難しいことです。しかもバイアスは強く人を縛ります。そして縛るのは環境も然り。かつてのわたしは、自分が強くあれば「女性ゆえの不利益」はなくせるのだとも思っていたわけですが、今でもそう信じている人はたくさんいると思います。本来そうであってほしいし、そのまま実力を存分に発揮してがんばれる環境だったらどんなにいいか。でも世界は「まだ」その地平にいません、残念ながら。

この不均衡を是正するために、「女性優遇ポスト」を設けるという方法があります。人材のジェンダーバランスが男性に傾いている現場において、積極的に女性を採用することで、比率の差を埋めていく方法です。しかしこの「女性優遇ポスト」を引き受けることにまた葛藤を覚える女性たちがいます。

その理由は様々ですが、主だったのもののひとつに、周りの男性から「女は優遇されていいよな」と声をかけられることで、まるで「そのポストを得たのは実力ではなく『女だから』」と言われてしまうこと。またもうひとつに、自ずから「自分はこのポジションに向いていない」と判断してしまうこと、たとえばそれは「自分はフェミニズムには疎いから、そのポジションにつくことで意見を求められても困る」と考えたり、「自分の実力では届かないところを『女性だから』与えられるんだ、それは恐れ多い」と遠慮してしまうケース、「自分は優遇なしに実力で戦いたい」と思うケースなどがあります。

それらの葛藤のひとつひとつを、手に取るように想像できます。その上でわたしが言いたいのは、そうしたジレンマの上でも「優遇ポスト」が巡ってきたら引き受けてほしいということ。あなたがそのポストを「断ったとき」に何が起こると思いますか? 誰か別の人に機会が渡れば良いですが、そうではなく、採用側に「女性は出世を/ポストを求めていないんだ」と思われてしまって、制度が廃止されたら、人材のジェンダーバランス是正の機会が失われます。つまり、あとに続く世代にこの不均衡がそのまま受け継がれます。

そんなことを言ったって、なぜ自分がそんなものを背負わなければいけないのかとも思いますよね。それはわたしたちより前の世代で片付かなかったからです。でもわたしたちが「女性優遇ポスト」がある時代に遭遇したのもまた、前の世代が残したもののおかげ、戦ってくれたおかげなのです。

もしあなたがそのポストを引き受けたことで、やいのやいの言ってくる男性たち、あるいは男性の肩を持つ女性がいたら、その人たちは「自分の実力で戦えない人たち」です。「女が優遇されている」のではなく、「これまでずっと男が優遇されてきた」のです。優遇ポストでおいしい思いしてきたことに無自覚な人たちは、あなたの実力で自ずとコテンパンにされるから大丈夫です。「フェミニズムに疎いから」と思う人は、分野外のことに口を出さない賢明な方なのだと思いますが、「女性ならではの意見」なんてものを求められたら「女性ならではって何ですか」と突き返して良いです。己の実力だけでがんばりたいと思う女性は、これまでの人生で「本当の不均衡」に出会わずに生きてこられたのかもしれません。あなたが活躍できる環境に身を置けたことは大変喜ばしいです。でもそれは先の時代に「優遇を引き受けてくれた」女性たちがいたおかげかもしれません。もらえるポストはひとまずもらっておいて、そこで実力を存分に発揮されたら良いじゃないですか。

先に述べたように、本来ならば「実力だけで」図られる、実力でしのぎを削れる世界であってほしいんです―その人の性別によって優遇冷遇の別なく。男たちが作った世界の不均衡を正すのに、女が一旦「清濁併せ飲まなければいけない」なんて、女性たちにそれを強いるのも我ながら酷なことを言っていると思います。でもまだ世界は成熟していないから、そういう世界を作るために梃入れしなければいけない。そんな時代にわたしたちは今立っているのだと思います。不均衡が是正された世界に生まれなかったのは残念ですが、これを過去のものにできるかどうかは、わたしたちにかかっています。

2022年の国際女性デー International Women’s Day、今年のテーマは #BreakTheBias バイアスを破る。この文章を書くために、日本で経験した様々な「不都合」を思い出していたら、蓋をしていた記憶が多くて自分でも驚きました。それだけ、ロンドンでは思い出さなくて良いほうの記憶でしたし、それを誘発する出来事もなかったのです。

とはいっても、イギリスにもイギリスなりの不都合があります。ひとつだけ象徴的なものを挙げるとしたら、「日本人女性はよく尽くしてくれるからパートナーにぴったりだ」という偏見です。日本に置いてきたと思ったジェンダーロールが、そのまま輸入されているなんて、ひどく迷惑な話だと思いませんか。裏を返せば、日本人女性が引き受けてきた「理想の女性像」は、世界標準で見たときに特別歪んでいるということです。非常に古臭い「理想の女性像」を作り上げたのは、ほかでもないマジョリティーで、マイノリティーの側に置かれた人たちは、その理想に迎合することでしか生き延びられなかったのです。

でも、時代は変わります。バイアスを破ることは同時に、バイアスをかけてくるマジョリティーへのシグナルです。バイアスという網でマイノリティーを捕らえておきながら、網の中の人にたいして、網にかかったのが悪い、その網は自分で取れというのは、非常にナンセンスです。獲物から網を外せるのは、網の外の人なんですから。

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はらだまほ

ヴァイオリン弾き。装備は弓とペン。いつでもシャツ着てます。藝高/東京藝術大学/英国王立音楽院修士を経て現在同博士5年。